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岡野 興夫

岡野 興夫(オカノ オキオ)

経 歴

1933年4月25日 中華民国天津市に生まれる。父が比較的手広く貿易業を営んでいた為に楽しく、
裕福な幼児時代を過ごす。この幼児体験は、後に仕事の上で大いに役立つこととなる。

1944年10月 愛媛県今治市(母親の故郷)に帰る。日本の中学校への受験準備のために
         一人で帰国、いじめにも負けず頑張る。
1945年8月 終戦、日本で戦争孤児になる。
1952年3月 高知県立追手前高等学校卒業
1952年4月 慶応義塾大学特別コース入学
1953年10月 経済的理由で退学
1954年10月 三枝商店入社
1960年10月 〃  円満退社
1961年1月 株式会社ヴァン・ジャケットに入社
        代表 石津謙介氏のもと、全てについて大いに薫陶を受ける。
1961年10月 仕入製作部長になる。
        ヴァン・ジャケットは、米国の若い学生世代のライフスタイル(生活の過ごし方)を
        日本の市場に広く紹介する企業であった。
        今で言う単なるアパレルメーカーではなかった。
主な事業は衣料だったが、ライフスタイル・プロデューサーとして、スポーツ、たべる事、遊び方、
音楽、グリーン、全てについて新しい業態を提案する。
これからYMMヤングマン・マーケットという言葉が生まれた。
米国との多くの往来により、素晴らしい経験を積む。

1965年~1968年 年に6~7回、仕事を兼ねて渡米。アメリカの若い世代のモノの考え方、仕事の組み立て方、進め方、等多くの事を学ぶことができた。年に6~7回は渡米することができた。
南カリフォルニア工科大学でのマーケティングのゼミ、とりわけ“社会心理学”のコースは、その後の自身の考え方に大きな影響を与える。

“市場は人間が造っている。心をもった人間が造っている”
その人間の心をときめかせ、揺さぶらなければ物は売れない。
あくまでも市場は、情緒と、心を持った人間がつくっている。
コンピューターがマーケットを作っているのではない。
マーケティングとは心理学に他ならない。

1968年5月 米国の有名なアパレルメーカーや、スポーツ用品メーカーとの提携、契約のための
        準備開始。
1969年5月 米国、Gant社、Spalding社、Head社 等、数社との契約完了。
        同年 丸紅を介して Hart Schaffner Marxとのスーツの縫製技術導入の契約に
        尽力したが、丸紅との利害が一致せず不成立。
        日本でも、やがてヤング・マーケットのジーンズ化を予見して、東洋紡、三菱商事との
        事業化の話をすすめる。
1969年10月 ヤング・マーケットのジーンズ化の確信と三社の合意を持って事業設立の
        準備に入る。
1970年4月 株式会社ヴァン・ジャケット 取締役商品計画本部長
        企画、仕入、技術開発、製作、宣伝、販促、意匠室を統括。
1971年8月 株式会社ラングラー・ジャパン設立 常務取締役営業本部長に就任。
        ヴァン・ジャケット、東洋紡、三菱商事の三社合弁にて設立。
1973年~74年 ジーンズをはいて育った人たちの持つべき新しい価値観と、ライフスタイルを
        全国に提唱、大きな反響を呼ぶ。
        3年で129億の売上を見る。南カリフォルニア工科大学で学んだマーケット戦略を
        大胆に実践。

“ディス・イズ・マイサン”“ディス・イズ・ラングラー”のキャンペーンを張る。
時流に乗る大変さを感じると同時に、その重要さを知る。
“無駄のない生活をしよう”“普段使うものこそオシャレでなければならない”
“ジーニング・ライフ”の提案である。
これが後日、オレンジハウス事業を組み立てる時の基本コンセプトになる。

1973年5月 米国ブルーベル社副社長から、Poloを紹介される。
         ソフィスティケーティド・トラッドの将来性を感じる。
         日本にPolo Ralph Lourenを紹介することになる。
1974年10月 青山にオレンジハウス一号店を開店する。
         小売業界に大変な反響を呼び、多くの人が見学に訪れ、また多くのメディアが
         取り上げる。
         あしかけ4年間、ラングラーで苦闘している間に、本社ヴァン・ジャケットが
         経営不振に陥る。
         信じられないことがおきる。
1975年4月 株式会社ヴァン・ジャケットに急遽帰任。
         Polo Ralph Lourenのライセンスを取得。Poloの商品を日本に登場させる。
         しかし本社の本格的な再建策で、丸紅と意見が合わず、結果力関係により、
         辞任せざるを得なくなる。
1977年2月~6月まで海外提携先に退社するとの挨拶廻りに出かける。
1977年6月 株式会社ヴァン・ジャケットを円満退社。
1977年8月 株式会社オカノ・アソシエイツ設立 代表取締役社長に就任。
         “Renoma”ブランドで家庭の中で使う繊維製品HomeFabricationをアパレル感覚
         のカラーコーディネーションンをコンセプトにして発表。
         多くの有名百貨店と取引開始、上々のスタートをきる。
(1978年4月6日 株式会社ヴァン・ジャケット倒産 業界に衝撃が走る。)
1978年8月 自分のコンセプトで創業したオレンジハウスをVANから買収。
1978年10月 株式会社ヴァン・ジャケット再建を任されたが、労働組合関係の抵抗のために
         成功せず。再建を諦める。
1980年4月 三井不動産の“ららぽーと”の開発に協力する。
1982年8月 オレンジハウス3店舗になる。
1984年3月 Ralph Louren HomeCollectionのライセンスをPolo社で取得する。
1987年7月 Ralph Louren PoloShopを米国Ralph Louren社と西武百貨店の要請により
        銀座に日本初の路面旗艦店を開店する。
1988年2月 JR西日本の要請で大阪駅のショッピングセンターの開発を引き受ける。
        “Gale”である。
         JR西日本のために米国のザ・ネイチャーカンパニー社と日本における独占的な
        販売契約の仲介の労をとる。
1990年5月 オカノアソシエイツ、業績順調。オレンジハウス20店舗になる。
         calvin kleinの要請により会社設立の話しをすすめる。
         三井物産、伊勢丹、オンワードと交渉する。
1991年5月 calvin klein Japan設立
         オカノアソシエイツも出資。
         オカノアソシエイツ、C.K.社とHomeCollectionの包括契約を取り交わす。
1993年8月 主取引銀行の評価としては、あと2~3年で、無借金経営になるとのこと。
         株式の上場準備のために、増資する。8000万円から1億6000万円の倍額増資。

米国のバッグ、ラゲージメーカーのTUMI社と独占的輸入販売の契約をし、営業の展開を始める。
米国ザ・ネイチャーカンパニー社との契約をJR西日本の要請で事業を引継ぐことになる、
これが後日、命取りになる。
初年度から、2億3000万という大きな損失を出す。

1995年8月 フランス・プロバンスにある自然化粧品の製造会社ロキシタン社と独占輸入販売の
        契約をする。ザ・ネイチャーカンパニーとロキシタンの両事業が後日、
        オカノアソシエイツ命取り、致命傷になるとはその時は知る由もなかった。
1998年5月 大変な欠損類損20億円を両事業で出したので一方的に契約を打ち切る。
        しかし1997年から始まった貸し渋りと、信用低下とがあいまって、急速に資金繰りが
        苦しくなる。経営者CEOとしての未熟さが身にしみる。
1999年8月 和議を申請
2000年3月 オレンジハウス事業を譲渡、他の全ての会社、個人資産を処分する。
         譲渡金および個人資産の処分金で債務弁済をする。
2004年3月 全て今までの仕事を、友人・仲間に譲渡し、心機一転して次の仕事に取り組む。
        縁あって、P.G.C.D. JAPONに入社し営業企画を担当する。すべてインターネットによる
        無店舗販売、特にバキュウム効果を期待しての広告、販促に力を入れる。
        特に費用対効果測定に力を入れる。
2007年7月 P.G.C.D. を円満退社。
2007年10月 友人と、学友の関係から、アフリカの仕事に専念する為に、戸田ホールディングス
         傘下に入る。中央アフリカ共和国の首都バンギーに、中央アフリカ政府に頼まれ
         バスの運行会社を合弁で設立し、営業を開始する。中央アフリカに2度出張し
         アフリカの何たるかを学ぶ。
         戸田ホールディングスは、将来レアメタルの開発を大いに期待する。
2008年5月 アフリカン・サミットが横浜で日本政府主導で開催される際、アフリカに出向き
         政府要員の送迎を行う。中央アフリカ共和国ボジズ大統領を迎える。政府要員との
         強い人脈を築く。
2008年12月 資金的なサポート、支援会社がサブプライムによる影響で資金の枯渇をきたし、
         これから軌道に乗り始めようとしていたアフリカ事業を已む無く閉鎖後退社。
2010年5月 次の事業計画、準備中。現在に至る。